去る11月1日、最新作「 L' Enfant / ある子供 」のプロモーションのため、4度目の来日を果たしたダルデンヌ兄弟の記者会見のリポートをお届けします。
まず1996年の『イゴールの約束/ The Promise 』以来計4作品を忠実に配給し、毎回日本に招聘してくれている配給会社ビターズ・エンドに感謝の意を述べた上で、次回作のプロデュースも依頼したいーという場面も。
Q:まず、監督が常に若者を描き続けている理由を教えてください。次に、ラストシーンがいつも素晴らしいのですが、ラストシーンは最初に決めているのか、それともストーリーをふくらます結果としてたどり着くものなのか、どちらなのかを教えてください。
L: これで4作、必ず登場人物、主人公の一人が若者である映画をつくってきましたから、私たちがきっと若者に興味を持っているんだろうとお考えになられるのは当然でしょう。私たちにとって、若者は、今から変わることができる年齢、すべてのことが可能な年齢です。そして今日、私たちが生きている社会では、それは日本も同じだと思うのですが、若者たちを人々が恐れている。そして若者たちを排除しよう、打ち捨てようとしている社会ではないかと思うのです。変化が訪れることが怖いから、若者たちをないがしろにしてしまう社会なのだと思います。私たちは逆に、そうした社会とは違って、若者たちを批判することはしませんし、若者たちを死なせたくないと思っています。
若者たちは変わっていくことができると考えています。たとえ、それは難しいかもしれませんが、時に彼らは大人の助けを借りなくても、変わっていけると信じているからです。
JP:私たちが映画をつくる時には、シーンをつなげたコンティニュティをつくりますが、ラストシーンは、そこにきちんともう存在しています。しかし各シーンを展開していくうちに、当初考えていたラストシーンから遠ざかり、別のラストを考える場合もあります。
今回の作品の場合、主人公のブリュノが死ぬというラストをいちど検討したことがありました。しかし、やはり今映画に残っているラスト、最初に考えていたラストの方が適切で、そうでなければならないと思い、現在のラストとなったのです。
ですから、ラストシーンは初めからあり、別の仮定をたてて考えたけれど、もともとあったラストからほとんど離れなかった、ということです。
Q:この映画の着想について教えて下さい。また、そこからどのように発展させていったのでしょうか。
L:それにお答えするのはとても難しいんですが、たしかに街で見かけた乳母車を乱暴に押す女の子、というイメージが最初にありました。何度も見かけた女の子です。私たちはいつも脚本を書く前に、二人でずいぶんたくさんのことを話し合うのですが、話の中でその女の子のイメージが何度も私たちに戻ってきました。そこで私たちは、彼女についての物語を書こうと決めました。実際にみた彼女のように若い一人の女の子、15歳か16歳か、とても若い女の子が街に出て、乱暴に乳母車を押し、その中にいる子供の父親になってくれる男の人を探す、誰でもいいから自分と一緒にいてくれて、一緒に子供の世話をしてくれる男性を探す、という物語です。ところがなぜだかわかりませんが、もしかしたら私たちの映画作家としてオブセッションなのかもしれないんですが、なぜか私たちは父親になる男性を先に見つけてしまい、その父親のストーリーを書いてしまったのです。
この物語は、愛の物語でもあります。主人公のブリュノは父親になれないでいます。自分の子供を売ってしまいます。そのように乱暴なかたちで自分の子供を遠ざけてしまう。そこで私たちは、ソニアのブリュノに対する愛、十分な愛があるとして、それだけで、このブリュノを変えられるか?という疑問を提起しました。
それでは十分ではないだろう。ソニアの愛だけではブリュノは変わらないだろうと考え、一緒に盗みを働くスティーブという少年のエピソードを加えたのです。スティーブを助けることを経て、ブリュノはソニアに再会します。
ブリュノはソニアの愛を取り戻し、そのことが、ブリュノが子供に対して心を開いていく可能性、父親になる可能性になる、というように物語を発展させました。
ですから、この映画はラブストーリーであると同時に非常に難しい父性の物語である、と思います。
Q:『ある子供』は、『イゴールの約束』で果たせなかったところを、今度はこうしよう、というような考えから作ったところはありますか?
JP:たしかに『ある子供』は『イゴールの約束』に近い映画かもしれません。『ロゼッタ/ Rosetta 』、『息子のまなざし/ The Son 』とはっきりした違いがひとつあるからです。私たちは、その前2作と違って、主人公のオブセッションの中に入りこんでいない、ということです。
また、考えてみると、『イゴールの約束』からの3作品はいずれも、異なる世代の縦の関係で描かれている物語ですが、『ある子供』は同年代の2人の人間関係で描かれる、横の関係の物語です。もちろんブリュノが果たして父親になれるのかという、父親の問題は出てきますが、子供はまだ小さすぎて、縦の関係にはいたりません。『ある子供』の主人公は、あくまでブリュノとソニアです。横の関係にある2人の同年代のカップルの映画だということが、とても重要な違いだと思っています。
これまでの映画、特に『ロゼッタ』・『息子のまなざし』との大きな違いがもうひとつあります。『ある子供』では、カメラは、登場人物たちが生きるのを見つめていますが、『ロゼッタ』『息子のまなざし』でカメラが完全に主人公のオブセッションの中に入り込んでいるのです。そういう大きな違いがあります。
しかし、皆さんは観客として、映画を外側から見ています。外から見る方がいろいろなものが見えます。私たちは水槽の中の魚のようなもので、外側から見れば、またもっと違うものが見えていらっしゃるに違いありません。
Q:キャスティングの経緯については?
L:はじめからジェレミー・レニエ( Jérémie Renier )を主人公に考えていたわけではありません。脚本にブリュノがスティーブのおならで笑うシーンを書いたのですが、そのシーンを書いた時、ジェレミーの笑い顔を思い出したのです。その場面のブリュノは、とても自然で自発的で、子供っぽい明るい笑いをしなければなりません。『イゴールの約束』の撮影の時、ジェレミーはまだ14歳でしたが、たとえばお昼ご飯を食べている時や夕飯の時に、彼がとても子供らしい笑いをしていたことを思い出しました。
そこで10年たった今もまだ、ジェレミーがあんな笑い方をしているのか、それを確かめなくてはと思って、彼に会いに行ったのです。すると彼は23歳になっていましたが、あの笑い方は失われていませんでした。そしてブリュノの役は19、20歳の役ですが、ジェレミーならできると感じたので、彼を起用しました。こうして彼と再び仕事をすることになったわけですが、とても素晴らしい経験になりました。
JP:ソニア役は、新聞やラジオに募集広告を出しました。私たちの映画に出演してくれる16~18歳の女の子を募集したところ、650通の写真入の手紙を受け取りました。写真や手紙はそれなりに価値がありますので、まずその中から最初200名を選び、その全員に会いました。カメラで少し撮影もして、そこから20人を選びました。彼女たちには、今度は少し長いテストを行いました。脚本を演じてもらった訳ではないですが、脚本にもとづいたテーマの即興をやってもらい、それを撮影しました。私や弟がブリュノの役をやって即興で演じてもらうことなどもして、5人に絞りました。その5人には、実際の脚本にあるシチュエーションを演じてもらい、かなり長いカメラテストを繰り返し、最終的に2人が残りました。そのうちの1人が、デボラ・フランソワ( Déborah François )だったのです。
2人については、それぞれ3日くらいかけてテストをしました。そしてデボラを選びました。デボラはとてもカメラに愛される女性で、高い資質を持っています。またジェレミー・レニエと並んだ時に、とても美しいカップルになるだろうと思わせました。また重要な点は、ソニアは、何かに打ち負かされた犠牲者のようには見えてはいけない、という点でした。また、体型が子供を産んだようだ女性として不自然でないというのも大切でした。そして何より、ソニアはブリュノに似ている存在でなければなりませんでした。ブリュノを励まし、彼を変えようとする、小学校の先生のようではあってはいけませんでした。ブリュノのように子供っぽい女の子であること。これらのすべてを満たしたのがデボラ・フランソワでした。
Q:「過去」に関するドキュメンタリーを長い間撮ってきたダルデンヌ兄弟が、「現代社会」を見つめるフィクションに映った経緯は?
JP&L:社会のいわば余白に生きる人たちを描くということですが、最初からそう決めていたわけではありません。偶然、私たちが撮りたいと思う人がそうだったということなんです。たしかに社会の余白にいる人を見つめることで、社会の中心がよく見える、と思います。なぜならばそうした余白にいる人こそが、社会全体をよりわからせてくれるからです。
今のようなご質問にたいして私たちもいつも考えてきましたが、その答えとしていちばん良いのは私たちの街について語ることだと思っています。
私たちの街スランは鉄鋼業の街でした。たいへんに栄えた工業地帯でしたが、経済危機によって、街全体が衰退してしまいました。そして、『ある子供』のブリュノやソニアや、ロゼッタや『息子のまなざし』のフランシスや、イゴールのような若者達がでてきたのです。一日中ブラブラしている人、麻薬中毒の人、麻薬のディーラーになったり、ただ1人で一日中しゃがみこんでいたり壁に背をもたせかけていたり、そうした若者がスランの街に現れるようになりました。そして彼らには何もすることがない、仕事がなく、失業している。または失業手当てさえもらっていない。こうして豊かな街は一変してしまったのです。それと同時に、家族も崩壊していきました。父親や母親は子供に対して権威を完全に失いました。その中で、私たちは社会の余白に生きる若者たちに興味を持ったのです。
私たちはそういう若者たちを描くことが好きです。なぜなら、社会は彼らを「見せたくない」「見たくない」と思っているからです。彼らを見ると、社会がうまくいっていないこと、社会が思い出したくないことを明らかにしてしまうからです。
*ダルデンヌ兄弟( Luc Dardenne / Jean-Pierre Dardenne )