今回のラインナップの映画作品としてのクオリティが気になるという方へ。日刊紙「ル・モンド」より、作品批評記事の抜粋をまとめました。
『Marguerite et Julien』 評:ノエミー・ルキアニ
兄と妹による禁断の愛というテーマをもとに、ヴァレリー・ドンゼッリは、観る者を困惑させる熱っぽい作品をつくり出した。そこには、様々なスタイルや様式、要素の組み合わせが見てとれる。
作品には、ひとつのフィルムだけでなく、いくつものフィルムが複合的に作用しているようで、(…)そこかしこに美しく光る石を見つけることができる。
テーマがテーマだけに、扱いに精彩を欠くとか、核心を巧みにかわしているなどといった批判の声もあるが、ドンゼッリはむしろ、映画の可能性を探るための実験装置としてこのテーマを用いたのではないか。どうしたら近親愛をいかなる関係とも同様にひとつの恋愛として語ることができるのか。ユーモアを使う?または文字どおり抒情的に?家族の悲劇として?当時の舞台背景や衣装で?それとも現代風にする?いや、やはり歴史ものとして扱う?ひとつひとつのシーン、そのつなぎ目から、ドンゼッリ監督の自問自答が聞こえてくるようだ。
『欲しがる女』 評:ノエミー・ルキアニ
セバスチャン・マルニエが描く、地方を舞台としたサイコスリラー。主人公は、まわりの人間を意のままに操ろうとする計算高い女性。非情な悪人というわけではないが、根っからの善人とは言えず、モンスターと呼ぶほどの醜悪さはないが、人間的な心もない。周囲を惹きつけ、魅了すると同時に、不快にさせ、撥ねつけてしまう。主演のマリナ・フォイスにとって、繊細さと、外科的なまでの正確さを要求される難しい役どころであったが、彼女はそれを見事に演じて見せた。このコンスタンスという女性は、俳優としてのフォイスの華々しいキャリアの中でも、最も素晴らしい当たり役のひとつとして語られていくであろう。
『わたしはパリジェンヌ』 評:ノエミー・ルキアニ
ダニエル・アルビド監督が、1990年代フランスを舞台とした学生生活へと私たちをいざなう。
身体で感じるパリ、知識として発見するパリ、夢に憧れたパリ…。アルビドは、歴史の授業では見ることのできない、フランスそしてパリで / パリに恋する人々のスケッチを描き出す。それはまるで屏風絵のようで、主人公リナのフレッシュな純情恋愛劇がいくつもの面にわたり展開されていく。金持ち男も文無し男も、同年代の学生も年上の三十路男も、共産主義者も王制支持者も、政治無関心男も熱血アンガジェ男も、みんなリナに異なるパリの顔をいくつも見せてくれる。行く先の扉は開かれていたり、閉じられていたりで、行き当たりばったりに方向転換を繰り返す彼女に、ある日、非難の声が浴びせられる。けれどもリナは、好奇心が旺盛なだけ。無節操なご都合主義ではない。少し欲張りではあるけれど、男漁りをするような放蕩娘でもないのだ。彼女はまだ18歳。唇にはほほえみを湛えている。審判を下したり下されたりするにはまだ早い。時間はあるのだ。『わたしはパリジェンヌ』は、ヒロインの心と同様に、歓びが宿った作品である。この作品は、問題を突きつけるのではなく、提案する。ちょうどリナが、ほほえみのままに出会いの中へと飛び込んで、自らさまざまな問題に臨んでいくように。リナのほほえみは、政治や行政を活性化させるわけではないし、フランスという国の矛盾をときほぐすわけでもないが、生きていく上では役に立つだろう。ヒロインにとって、それが実際どのように活用されたのか、フィクションの世界でも、現実の世界でも、「その後」が気になる作品である。
『家族の食卓』 評:ノエミー:ルキアニ
アントワンヌ・キュペルス初の長編監督となる本作で、何があろうとも永遠に結ばれた母と息子を、ナタリー・バイとトマ・ブランシャールが演じている。
細部まで緊張感が感じられ、脚本もひじょうに上手い、心奪われる作品である。そしてまた、あまり例を見ない作品でもある。親子のデュオを演じる二人の俳優の調和が、見事なまでに完璧なのだ。トマ・ブランシャールは、意表を突く変わり者のセドリックという人物を演じる。私たちは、彼の強さと弱さを絶えず混同し、家族を名乗る人々よりもきちんと彼に愛情を注いであげられるのではないかという幻想さえ抱くが、それはもちろん不可能なこと。一方、ナタリー・バイはいかなる描写をも超越してみせる。役としても信用できる完璧な人物なのだが、まったくもって読むことができない。メーデイアを内に住まわせた化け物のようで、家族全員をテーブルナイフで突き刺して血抜きにしたとしても驚きではない。それも、ほんの少し声をうわずらせる程度で、すべてをその目で表現してみせる。
(…)これは、悲劇の内側で起きた「家族の悲劇」であり、転落の中で膨らみ過ぎた負荷の露呈である。それでもやはり、それは愛と呼べるもの、または愛に似た何かの表れとも言えるのではないだろうか。
『僕のまわりの悪魔』 評:ノエミー・ルキアニ
生きづらさを抱えた少年フェリックス。フィリップ・ルザージュ監督が少年を蝕む不安を捉える。
無邪気で、屈託のない子ども時代(もしかしたらそれはノスタルジックな大人たちが勝手につくり上げた空想でしかないのかもしれないが)、それはここでは別世界の余談にすぎない。子どもであるということは深刻な事態であり、自分がいかに小さな存在であるかを意識し始めた時、取るに足らない些細な問題が、太陽の光も隠す巨大な「不安の山」となって立ち現われる。
フェリックスの中にはさまざまな恐怖が混在する。「パパとママごっこ」をして遊んでいるとエイズに感染するらしいという、思わず笑ってしまうような不安から、子どもを狙う暴行殺人犯が徘徊しているという、息をのむ深刻な不安まで。大人たちは気にも留めない。まるで成長するということが、彼らからある種の感受性を奪い取ってしまったかのように。ルザージュ監督は、そんな大人たちを冷ややかに描く。グループという関係性の中で凍りついた大人たちの無感覚が、背景にぼんやりと現われる殺人鬼のそれよりも、一層くっきりと、不気味に浮かび上がってくる。
『転校生』 評:ノエミー・ルキアニ
転校生として中学にやって来た少年を追ったルディ・ローゼンバーグの作品は、思春期の学園クロニクルという表面の下で、憂いと楽観の間に新たな道を切り拓いている。
『転校生』は、まずビジュアル的に楽しい作品である。カラフルなパステル色に彩られ、若き登場人物たちの頬をやさしく撫でるように、柔らかな光が降り注ぐ。ふんわりとした心地よい世界で、ストーリーはすばやく展開していく。しかし、この可愛らしげなビジュアルに騙されてはいけない。この作品の主題はむしろ、残酷さなのである。あまりにも日常的な光景なので、それを残酷さとして認識することすらしなくなってしまったが、中学生同士の関係に存在する残酷さである。
『転校生』には、その登場人物たちの「らしさ」がよく表れている。彼らの弱さを認め、残酷さも滑稽さも包み込む、あたたかい愛にあふれた作品だ。そして絶えずそれを笑おうと働きかける。意地悪からでも軽蔑からでもない。自分自身を笑うことができたら、まわりの嘲笑なんて怖くなくなるからだ。
いつかすべてが目の前にはっきりと現われる…、そんな予定調和には何も新しさは見出せないが、この作品には、ユーモアと、あたたかさと、意地悪をしたくなる誘惑に負けない優しさがある。子供時代を捨てることなく成長する権利を主張し続け、新しい道を切り拓く。そうして、成長物語には付きものの古い教訓を、鮮やかに、そして的確に書きかえてしまう。12歳という、人生が目の前に果てしなく広がっている眩しい年頃には、その教訓を受け取ることは難しいかもしれないが。
『旅芸人と怪物たち』 評:ノエミー・ルキアニ
女性監督レア・フェネールが、ちょっとイカレてはいるけれど魅力にあふれる旅芸人の一座を、エネルギッシュに描き出す。
移動演劇は、過剰さの芸術として表われる。舞台にあるのは、過剰な化粧、過剰な叫び、過剰な照明と音楽、過剰なエネルギー…。そこで何もかも吸い取られて空っぽになってしまわぬよう、すべてが「やりすぎ」なくらい溢れている。舞台裏はといえば、強すぎる自己主張がぶつかり合い、あちこちで感情的なドラマが繰り広げられている。身体も心も距離が近すぎるのだ。それぞれが競り合い、共に寄り添い、反発しながら共存している。
カメラはまるでエネルギーが渦巻く旋風に吹き飛ばされてしまったように、ほとんど動きに流されるままに撮っている。私たち観客も、のんびりスクリーンを眺めている場合ではない。全速力で進む船のスクリューに巻き込まれた一枚の枯葉になった気分で臨まなければ。
作品は熱い情熱をもって否応なしに動き続け、決して止まることがない。それはしかし、悲劇がもたらす逸脱、哀しみが引き起こすめまいの中で、感動と美しさを生み出す偉大な動きとなる。チェーホフと共に生きようが、チェーホフなしで生きようが、私たちは誰もこの人生から逃れることはできないのだから。
『正しい人間』 評:ジャック・マンデルボーム
エマニュエル・フィンケル監督は、ニコラ・デュヴォシェル主演の本作で、フランスという国に蔓延する不満や危機感を淡々と冷ややかに綴っていく。
背筋が凍りつくような成功作である。ロマネスクな側面を持ちながらも、フランスが抱える問題を伝える記録としてこれほど臨床的で厄介な作品は、これまでの国産映画にはほとんどなかった。
ガラスと鏡のウインドウが果てしなく反射し続ける、ブルーグレーの無人地帯が撮影の舞台だ。それは、ソビエト崩壊後のカザフスタンの、まるで凍結してしまった社会と人間とを描いた、ダルジャン・オルバミフの映画の世界を彷彿とさせる。『正しい人間』は、今現在フランス社会が直面している苦い現実を指し示す。社会的連帯が失われ、成功者だけが評価される個人主義が優勢となり、そこからこぼれ落ちた者は惨めな扱いを受けて下層へと追いやられていく。コミュノタリズム(共同体主義)が台頭し、社会の退行が激化する。居場所を追われた《生粋のフランス人》たちは、人種差別思想へと吸い寄せられていく。
『Bang Gang』 評:ジャック・マンデルボーム
現代というデジタル時代において、性のリミットに触れた若者たちの経験を、エヴァ・ハッソン監督がフィルムに収める。
作品は、深い水の中に潜んでいるものを浮かび上がらせてはまた沈めて愉しむかのよう。肉体が舞い、裸体を露出する。どこに行っても液晶画面が存在し、エレクトロミュージックが氾濫する世界。そこで行われる純然たる肉体の消費。ユートピアと堕落。美しさと醜さ。高揚する欲望、コントロールを失った猥褻さ。ほとんど説明は加えず、深いところに切り込んでいくこともしない。背景やプロットも明確には見えない。そこには、思春期という闇に映画の光を当て、その表面に反射するものを撮ろうという狙いがある。
いくつかの決意を厳格に貫く頑固さが、この作品の美徳となって表れる。三面記事を賑わすような事件をちらつかせながらも、本筋からは決して逸れないこと。ロマネスクを詰め込みすぎて、本題をすり替えてしまわないこと。妄想を行為に移すことの俗悪性、逸脱を必要とする欲動の激しさ、外見的なものへの盲目的な服従。それらをしっかりと見せること。そして、ありきたりでも利のある、恥はあっても光り輝く結末をきちんと示すこと。エヴァ・ハッソンは、ラリー・クラークを真似ればそうしたかもしれないが、思春期における妥協の拒絶を決して大げさには扱わないし、ハリウッド的な「ティーン・ムービー」にありがちな甘ったるい演出もしない。思春期というものをむしろ内部からそのまま浮かび上がらせるのだ。大人への通過儀礼は、時によって崇高さと猥雑さを結び付けるものであるが、しかし世界をより広く理解しようとする力を持っていれば、この経験をうまくやり過ごすことができるのではないだろうか。
『サマー・フィーリング』 評:ノエミー・ルキアニ
サシャが逝ってしまった。友人、家族、愛する恋人ロレンス。サシャと彼らをつないでいたものは何一つ失われてなどいないのに、彼女はもうここにはいない。これからの人生を、残された人々はどのように前へ進んでいくのか。
ミカエル・エルス監督の長編第二作『サマー・フィーリング』は、ある夏の日に失われたひとつの若い生命が遺していった痛みの物語を、語るというよりもむしろ、描き出した作品である。一年、そしてまた一年が経ち、ベルリンからパリ、パリからニューヨークへと場所は移る。それでもまた同じ季節がやってくると、ロレンス(アンデルス・ダニエルソン=ライ)とサシャの妹ゾエ(ジュディット・シュムラ)の中にあの特別な憂愁が呼び起こされる。すべてはあの頃とつながっているという想い。流れる時が痛みを少しずつ和らげてくれるとしても…。
『モカ色の車」 評:ノエミー・ルキアニ
フレデリック・メルムード監督作品への出演は『Complices』以来となるエマニュエル・ドゥヴォスが、的確さと想像力とを存分に発揮し、復讐に燃える女を演じて見せた。しかしこの作品の魅力は、ドゥヴォス演じる女主人公の素晴らしさだけに止まらない。表面的には穏やかでも、内には感情がほとばしり、リリシズムの中にひじょうな抑制を感じさせる、厳密に練られた見事な演出。ある出来事がすべてを一変させてしまった、そんな人間の経験を浮き彫りにさせる。主人公の鼓動の高まりは、ナタリー・バイ演じるミステリアスな「獲物」の女のそれと共鳴して、温かくも不穏な空気が生まれる。半規則的に打たれる拍動が密かに聞こえてくるようだ。しかし、その音が掻き消されるほどの大きな衝撃は決して起こらない。メルムード監督の深い知性がそこにある。いかなるトリックも武器も使わず、素手で脈拍の動きを探り当てていくようなスリルを巧妙に表現した。